心の技術(自分の心を制御する)

 今、巷では癒しブームであるようだ。どこいらじゅうで「癒し」という言葉を目にする。心のケアなる言葉を聞き出したのも随分と前のことで、ストレスという言葉にいたっては、完全に一般的に定着した感がある。
 昨今の「心」ブームの背景には、何やらお金儲けの「心」が存在し、我々を操っているような臭いが感じられなくもない。
 まあ、それでも、心の健康に注目することはよいことであると考える。

 しかし、心についてのやっかいなところは、心というものが誰の目にも見えないものである、ということである。
 これが身体であれば、見えない場合もあるが、悪い部分が自分にも他人にも見える、または察せられる場合が多いのであるが、心ではこうはいかない。とにかく、手でさわったり、目で見たりして確認するわけにはいかないのであるから、いわば全てが推論の域を出ないものである、と言うことができるかもしれない。

 例えば、書店の心に関するコーナーには、本当に様々な本が並んでいる。本の中で述べていることも様々である。100人いれば、100通りの論が展開されている。
 そして面白いことに、この中でたまたま売れた本があると、次から次へとその本の焼き写しただけの本が出版されてくる。
 この中には、明らかに、そのことに関して研究したりデータをとったりしたことなど、今まで一度もないであろうと思われる人達が、世に溢れ返っているノウハウ本という形で、次々と同じ趣旨の本を出してくる。
 まあ、ノウハウ本一般に言えることであるが、この類の書籍は、毒にも薬にもなるものではないので、それはそれでよいのかもしれない。書いている本人も別に、自分が書いたことを実践しているわけでも、信じているわけでもなく、ただ本を書くという目的のために書いているのであるから。

 例えばである。今主流をしめているらしい、潜在意識という意識。
 様々な本で、潜在意識という言葉を目にするが、この潜在意識なるものを見た者は、いまだかつて一人もいない。どこにある意識なのかも誰も知らない。
 表面に出ている意識の下にある意識であるそうだが、心というものが、そのように階層構造をしているものである、ということを実際に目にして確認した者はいない。
 ただ、今主流をしめている考え方である、というだけのものである。将来的には、また違った論が主流をしめているかもしれない。

 我々が事実と思っている「事実」なるものは、我々の時代の多くの人が「それが事実である」と、ただ思っている事がらにすぎない。
 コロンブスの時代には、地球は四角であると、皆信じていた。今でも地球は四角だ協会というものがあるそうであるが、この人達にとっての事実とは、「地球は四角い」ということである。ただ、少数派であるので、誰も相手にしないだけである。
 我々が習う歴史を見ても、我々が子供の頃に文部省検定の「教科書」で習い、試験にまで出ていたことと、かなり違ってきている。

 従って、潜在意識という考えが主流だからと言って、数学の定理のように考えるのは、おかしいような気もする。
 また、この潜在意識は、人生をも左右するらしい。なかなか恐い存在のようだ。

 この潜在意識が存在するのか、しないのか。また、存在するとしてこの潜在意識なるものが、どのように我々に影響を及ぼすのかは知らない。
 しかし、私の経験からでは、心の健康を保つ、自分の心を制御する、あるいはそのトレーニングをするということを目的とするのであれば、心がどのようになっているのかという知識は、あまり関係ない。
 例えば、「腕立伏せ」という運動をするのに、腕の筋肉がどのようになっており、どのような仕組みで筋肉が強くなっていくのか、などと考えながら腕立伏せをするものもいないであろう。これと同じことである。
 心の健康を保つ、心を制御するための具体的な方法があるなら、「何故」はあまり重要ではない。

 自分の心を制御する、心の健康を保つということは、いわば心の技術というものである。またこれは誰でも身につけることができるものである。
 ただし、やはり技術であるので、この技術を身につけるには、少しの練習が必要である。
 何をしても一切病気にならないという人がいるように、生まれつき心の健康が保てるような心の構造になっている人もいるかもしれないが、これだけ心の健康が叫ばれているのを見ると、多くの人にとっては、運動と同じように練習が必要なようである。

 ただ、心を健康に保つように練習するといっても、前述のごとく心というものは目に見えるものではなく、運動のように進捗状況がわかるものでもない。

 身体の健康を保つのであれば、様々な説はあることはあるが、規則正しい生活をし、バランスよく食べ、適度な運動をする、という方法に集約される。また、そのための具体的方法も、それぞれの症状に応じて示すことができる。
 されには、身体に何らかの悪い徴候が見られるならば、その原因を取り除けばよい。

 しかしながら、心に関しては、健康を保つための具体的練習方法や施策をはっきりと示すことが難しいようだ。
 多くが、前向きに考えましょう、笑顔でいましょう、良い言葉を口にしましょう等、抽象的な言い回しに終始している。
 リラックスしましょう、ストレスをためないようにしましょう、このように考えましょう等といわれても、それができないから悩んでいる。そのための具体的な方法を教えてくれということになる。

 リラックスするために、今はやりの「癒し」サービスをためしても、その時には気持ちよいのであるが、またすぐに元の状態に戻ってしまう。
 そのため、また「癒し」サービスへ通う。何回か通っている間に、さらに「強烈」な「癒し」が必要となってくる。
 こうなると、他人の心を操作しようと考える悪い連中が忍び寄って来ても、分からなくなってしまう。自分が苦痛と思っているものから逃れるため、何かに依存してしまうことになると、自分で自分の囚われに気づき取り除かない限り、なかなかその状態から抜けることはできない。
 自分の心の健康を保つ、または自分の心を制御するために、自分の心以外の力を借りようとすると、間違った方向へと進んでしまう。

 実際の話、心を健康に保つ、心を制御する、あるいはその為のトレーニングをする上において、「心地よさ」や「リラックス感」という感覚は、あまり関係がない。
 例えば、心のトレーニングをする時では、気持ちよかろうが、気持ち悪かろうが全く関係がない。リラックスしているかどうかも関係がない。その場限りの「癒し」とは違うのである。

 また、人間の脳はどのような「心地よさ」や「リラックス感」にもやがて慣れてしまう。タバコやお酒でも、初めての時には、頭がくらくらとするが、やがて慣れてくる。これと同じだ。
 この肉体的または精神的な「心地よさ」や「リラックス感」を追い求めてしまうと、以前の「心地よさ」や「リラックス感」を得るために、「さらに強い」刺激が必要となってくる。
 怪しげな団体がよく使う手口である。注意する必要がある。

 「心地よさ」や「リラックス感」など、実際には、どのような方法でも簡単に得ることができるものである。
 しかし、体験したことが無い者には、先程のタバコやお酒と同じように、なかなか強烈なインパクトを与えるようだ。肉体的な「心地よさ」に関しては、特にそうである。
 生命が子孫を残すために、肉体的快感を報酬とする方法を採用したのもうなづける。それだけ肉体的刺激とは強烈なものなのであろう。
 しかし、前述のごとく、ほとんどの感覚において、同じ刺激ではやがて慣れてしまう。そこで、以前の「心地よさ」や「リラックス感」を得ようと、さらなる刺激を求めるようになってしまう場合がある。

  また、心と身体は一体であると、やたら身体を鍛えている人達もいる。
 確かに心と身体はつながっている。心に感情が生起すると、身体に微妙な変化が現れる。
 特に、首筋の後ろ側に微妙な感覚が現れる。

 余談ではあるが、プロのスリは、人の首筋の後ろ側を観察しながら仕事をするらしい。すられている方の人は気がついていないが、身体と心は刺激に対して反応しているのであろう。

 この身体に現れる感覚は、普通では感じることは難しいが、心を制御する練習をある一定期間行うと、知ることができるようになってくる。
 怒りや悲しみなどの大きな感情であれば、普通でも知ることができるであろうが、生まれては消え、生まれては消えしている心に生じる微妙な感情と、それにより生じる体の感覚を知るには、やはり練習が必要である。

 話はそれるが、我々の五感と心は24時間休むことなく活動している。普通では気づくことがないが、五感から取り込まれる様々な刺激に対して、様々な微小な感情が心に生起している。
 そして、長年の間に積もり積もって、我々というものを形作っている。
 この心に生じる微小な感覚を知るには、やはり練習が必要である。
 よくセミナーやノウハウ本などで、自分の心を知ろうということをやっているが、この心に生じる微小な感覚を知ることができるようになるまでには、それ相当の時間がかかる。
 心の問題に関しては、目に見えるものではないので、すぐにも全員がフルマラソンを走れるかのように、様々なことが行われているようである。

 この前も「一体どのようなことをやっているんだろう」と思い、今流行りのセミナーに行ってきた。そこでもやはり、講師の人が自分の心を知ろうとやっていた。
 そこで私はその講師の人に「あなたは自分の心が今感じていることを知ることができます」と質問すると、講師の人が「できます」というから、「それでは今あなたは、自分が、まばたきをしたことを知っていますか、自分の足の小指が今何をどのように感じているか知っていますか」と質問をした。
 講師の人は「こいつはバカか」というような顔をして、「そのようなことと自分の心を知ることとは何の関係があるのだ」と言ってくれた。
 この一言で、この講師の人は、一切自分の心に生起する感情を知ることができず、自分の心を制御することもできない、と知ることができた。
 私が何を言おうとしているのかは、心を制御するための正しい練習をした人には、すぐに分かってもらえることであると思う。

 話がかなり横道にそれたが、心と身体が一体であるから、健全なる身体には健全なる精神がやどるとばかり、しゃかりきになって身体を鍛えている人達。
 これが、身体の健康を維持する程度の運動であればよいのであるが、度を越して運動中毒のように鍛錬している人や、何かにとりつかれたように健康食品などを口にしている人もいる。

 前述のごとく、確かに心と身体は連動している。また、身体の健康が損なわれると、心が暗くなってくるのも事実である。しかし、どのようにしゃかりきになって身体を鍛えようと、肉体は年齢とともに衰えていく。これは自然の理である。

 子供の頃や若いうちは身体を鍛えることにより、心を健全に保つべきであると考える。私は今、子供の頃の運動(体育)は、健全な心を養う上で非常に大切なものであろうと考えている。
 これは、子供の頃や若いうちは、まさに心と身体が一体化しており、身体を鍛えることにより、健全な心を養うことができると考えているからである。

 しかしである。歳とともに身体は衰えてくる。身体の衰えとともに、心と身体の一体化が徐々に崩れ出してくる。
 心が、あっち飛び、こっち飛びして、不安定になってくる。
 これではいけないと、身体を鍛えても、若い頃のような身体に戻ることはない。
 人間以外の動物が、身体の衰えとともに死ぬというのも、何となく理解できるような気もする。
 しかし、我々人間は、身体が衰え出してからも何十年と生きて行きなければならない。

 それでは、どのようにして、心の健康を保てばよいのであろうか。
 それには、運動をし身体を鍛えるのと同じように、心の健康を保つために心の運動(練習)をすれば良い。
 ある年齢からは、心そのものを鍛える練習が必要になってくる。

  さらには、心のトレーニングをすることにより、逆に身体によい影響を与えることができるようになる。
 簡単な例では、身体の様々なコリが取れてくる。
 歳をとると身体のあちこちが凝り出してくる。マッサージをしても、その時はよいのであるが、またコリ出してくる。
 病的な身体のゆがみということもあるが、ほとんどの身体のコリは、感情と結びついたコリである場合が多い(変な言い方であるが)。
 その証拠に、心のコリを取り除くと、自然と身体のコリも取れてくるようになる。

 このように心の健康を保つには、年齢とともに、その方法が異なるもののようである。
 私は今40代であるが、40歳を過ぎたあたりから、このように考えるようになった。
 心の健康を保つために、具体的な心の運動をし、身体の健康を保つために適度な運動をする。

 ここで重要なのは、心の運動といっても具体的なものでなければならない、ということである。
 前述の「このように考えましょう」というような具体的方法がない抽象的なものではなく、腕を鍛えるには腕立伏せをすればよい、脚を鍛えるには走ればよい、というように具体的なものであり、またどのように腕立伏せや走ればよいのかという練習方法である。

 歩く哲学者の私としては、この何十年の間に、生活の中で行う様々な心のトーレーニングを発見し、知人にもその都度教えてあげている。
 この中には、歩きながら行い身体の運動にもなるものもあれば、座りながら行えるものもある。
 原理自体は非常に単純なものばかりである。まあ、身体の健康も原理は単純なものなのであろうが。

 今回は、前回の「歩く哲学者」を読んだ方から、「心を制御する」とはどのようなことかと質問があったので、ザッとであるが述べてみた。
 ただ、心というものは、非常に広いものであり、簡単に「このようなものだ」とは言い切れないところがある。ここで述べている事がらは、私自身が心の練習の過程で得た理解を簡単に述べたものである。



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by goodlife_3 | 2005-12-04 12:33
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