集中する、ということ

 「集中する」ということは、心を制御する上で非常に重要な要素である。
 一般的には「集中力」という言葉を使用する。集中力がある、または集中力がない、というような使い方をされるが、私が理解しているかぎり、別に集中するための何かの力があるわけでもないようだ。
 握力や背筋力などでは、確かにその部分の筋力という具体的なものが存在するが、集中力に関して言えば、具体的な何かの力というものでもない。

 それでは何故「集中力」に差異が現れてくるのか。また、自分には集中力がない、と思っている人がいるのか。
 これは、我々自身の意識の向けた方と、エネルギーの使い方の違いによるものである。
 そしてもう一つの要素として、我々の心のクセが関係している。

 断言することはできないが、大体において、集中力がない人というのは、間違った対象に意識を向けているか、ある対象に能動的にエネルギーを使用する方法を知らないか、または意識があっち飛びこっち飛びしてまう心のクセがついてしまっているからであるようだ。
 しかしながら、この「集中」という行為は心の技術であり、習得が可能なものである。

 まず、間違った対象に意識を向けているとは、集中しよう集中しようという思いに意識を向けていたり、何かの行為をする場合にふと心に生じてくる不安などの感情や思いに意識を向けていたりする場合などがあげられる。

 何かの行為をする場合に、失敗してはいけないという思いに意識が向き、集中できないということはままあることである。
 これは我々が、自分の心に生起する感情や思いに囚われてしまうことにより起こることである。

 自分の心に生起する感情や思いに囚われないようにするということは、自分の心を制御し、心の健康を保つうえでも非常に重要なことである。
 しかしである。このことは口でいうほど簡単なことではない。そのことは、我々自身がよく知っている。
 簡単な例でいうならば、禁煙である。「タバコを吸いたい」という思いに囚われなければ、禁煙など簡単にできてしまう。しかし現実を見てみると、多くの人が禁煙できないでいる。不眠なども、この部類に入るものであろう。

 意識を向けてはいけない対象に意識を向け、そしてその対象にエネルギーを使って集中していってしまう。意識を向けてはいけない感情や思いに打ち克とうという努力も、実は、明確にその感情や思いを意識しているため、無駄な努力となる場合が多い。

 この意識を向けてはいけない感情や思いに対処するには、そのような感情や思いに囚われない心の技術(コツ)を習得する必要がある。心の技術といっても、このコツは簡単なものであり、誰でもが比較的簡単に体得できるものである。

 心を制御する、心を健康に保つには、いくつかのコツを体得していく必要がある。
 例えば、必要のない感情や思いをやり過ごし囚われないコツ、心に生起する様々な感情や思いを観て知ることにより囚われないコツ、我々が持つエネルギーを使うコツその他であるが、これらのコツは練習により誰でも体得していけるものである。

 ただし、これらの技術は体得しコツを掴む必要がある。頭で理解しようとするだけでは、実際には使うことができない。
 頭だけで理解しようとすることは、解説書だけを読みスポーツ選手になろうとするようなものである。しかしながら、巷では、この頭だけでの理解を促すものが氾濫している。
 また、短期間で習得できるものもあるが、ほとんどのコツがあるレベルに達するまでには、一定期間の練習を要する。さらには、あるレベルに達したからといって、終わりのあるものでもない。

 前述の集中における、意識を向けてはいけない対象に囚われないようにするには、ほとんどの場合、必要のない感情や思いをやり過ごし囚われないコツ、心に生起する様々な感情や思いを観て知ることにより囚われないコツで対処していくことができる。

 我々の心は途絶えることなく様々な対象に意識を向けている。
 意識とは何かという大命題はさておくとして、我々の心とは、生起しては消滅し、生起しては消滅する意識が連なったものである、ということが言えるのかもしれない。

 この心に生じる意識には様々なものがある。良い感情や思いもあれば、怒りや不安などの出て欲しくない感情や思いもある。
 ここで重要なことは、この心に生起する感情は我々の意思では、制御できないということである。
 あるハウツー本やセミナーなどでは、心に悪い感情を生起させないようにする、などとやっているのもあるようであるが、これは全く無知としか言いようがない。このようなことを見ただけでも、何も自分では体験したことがない、ということが断言できる。
 我々の心に悪い感情や思いを生起させないようにするには、我々の五感を全てシャットアウトしてしまわなければならない。

 五感から入る刺激がどのように心に影響を与えるのかについての私なりの理解はまた別の機会に述べることとして、我々が五感から入る刺激を全てシャットアウトするということは、生きている限り不可能なことである。
 従って、我々が生きている限り、出て欲しくはないが、不安その他のいらない感情や思いが心に生起することは仕方がないことである。

 しかしである。この生起した感情や思いに囚われないでいることはできる。
 これは、心を制御する鍛錬をした者は知っていることであるが、囚われなければ心に生起したどのような感情もやがて消滅していくのである。そう、づっと存在する感情や思いというものはないのである。
 そこで前述の必要のない感情や思いをやり過ごすコツ、心に生起する様々な感情や思いを観て知るコツで、心に生起する思いや感情に囚われないようにすれば、これらの感情はやがて消滅していく。

 これらのコツは一見似たようなものであるが、全く異なるものである。
 どちらが高度なコツというのもおかしなものであるが、実際には「観て知るコツ」はかなり難しい。前回の「心の制御」でも述べたように、心に生起する微小な感情も知ることができなければならないし、どのような感情や思いにも囚われない技術を持っていなければならない。「観て知るコツ」を体得するには「やり過ごすコツ」を体得しておく必要があり、正しい方法で段階的に体得していく必要がある。それだけ時間のかかるものであり、終わりのないものでもある。
  また、これらのコツは、先ほども述べた通り、正しい練習をして体得しなければ使うことができないものである。

 余談ではあるが、先程の禁煙や不眠などのものであれば、これらのコツで対処できるものであろうと考える。
 例えば禁煙程度(禁煙できない人にはごめんなさい)の吸いたいという思いであれば、それほど強い感情ではない。
 私も20年以上タバコを吸っていたが、やめようと思ったその日から簡単にタバコをやめた。
 明らかに病的なものは別にして、禁煙や不眠をはじめ、ほとんどのことが、心を制御するコツで自ら対処ができるものである。

 ここまで簡単にではあるが「集中する」場合における、間違った対象に意識を向けない、ということについて説明したが、これだけでは行為に能動的に集中するということにはならない。
 行為に能動的に集中するには、我々のエネルギーを集中する対象に向けて使うように出来なければならない。

 「間違った対象に意識を向けない」とは、例えば、道端から多くの人が通行する様子を、ある特定の人に意識を向けないで見ているようなものである。しかし、エネルギーを使うとは、道行く人の数(あるいは特定の種類の人)を数える行為をするようなものである。

 我々がある行為に集中する場合には、「間違った対象に意識を向けない」ということと共に、エネルギーをある方向へ向けるということが必要であるし、我々が集中している場合には自然とこの両方のことを行っているものである。

 ここでいうところのエネルギーとは、我々が元々持っているエネルギーのことである。
 例えば、喜怒哀楽も、同じ根から出ているエネルギーである。
 このエネルギーが正しい方へと出れば正しい感情や思いや欲求となるし、間違った方へ出れば間違った感情や思いや欲求となり現れ出て来る。通常の生活において、このエネルギーがどの方向へと出安いかとなると、我々各人の刺激に対する反応(思考の型)にも関係してくることであり、また別の機会に説明することとする。

 普通、集中力があるという人は、このエネルギーを一定の対象に向けるのが上手いとともに、エネルギーのレベルの使い分けが上手い人を指す。

 エネルギーを一定の対象に向けるのが上手になるには、「間違った対象に意識を向けない」ということと共に、もう一つの要素が関係してくる。
 それは、どれだけ長く我々の意識をある対象に止めることができるか、ということである。 これは、我々の心のクセというもので、なかなかやっかいな代物である。

 我々の心は、常に、あっち飛びこっち飛びし、ご存知のようになかなか定まることがない。放っておくと歳とともにそれが強固なクセになり、何かをしようと思ってても、意識があっち飛びこっち飛びし、集中することができなくなってしまう。
 簡単な例では、例えば読書。読もうとすると、「そうそう明日・・・」などと別のことが頭に浮かんでくる。

 歳をとり集中力がなくなったとよく聞くが、長年の間に強固なものとなった、あっち飛びこっち飛びする心のクセが原因である場合が多いようだ。
 心があっち飛びこっち飛びすることにより、間違った対象に意識を向けてしまう。そして、その対象に囚われ、エネルギーを持って間違った対象に集中してしまう、ということになってしまう。
 もちろん、脳が退化してしまい、何をするにも脳が拒絶をしてしまう人もいるようであるが。

 このような、あっち飛びこっち飛びしてしまう心のクセを直すには、やはり練習が必要である。これは長年の間についてしまったクセであるので、練習により直すことは可能である。

 エネルギーはというと、これは我々が生きている限り持っているものである。
 歳をとり、怒りっぽくなったなどということは、エネルギーを持っている証拠である。

 また、このエネルギーにはレベルがある。レベルというよりも、現れ出るエネルギー量という方がよいかもしれない。
 例えば、怒りのエネルギー。これはなかなか強烈なエネルギーであるが、同じ怒りのエネルギーでもレベルがある。怒っている間に次第に怒りの感情が増大してくるということは、よく経験することであろうと思う。本人も何故、これほど怒っているのか自分でも分からない場合が多い。
 このように普通ではなかなか制御できない我々の持つエネルギーであるが、このエネルギーも練習により次第に制御することができるようになる。

 以上、「集中する」ということについて簡単に述べたが、前述のごとく、この「集中」ということと「心を制御する」ということとの間には密接な関係がある。
 正しい集中ができないと心が制御できないし、心が制御できないと正しい集中ができない。
 特に歳をとればとるほど、そうなってくる。
 子供などでは、意識せずとも、その行為に没頭している。まあ、自分の興味のあるものだけを行っているということもあるが、歳をとるにつれて興味のあるものにも集中できなくなってくる。そこで出る言い訳が決まって「考えることが沢山あるから」ということになる。こういう人は何をやっていても、沢山のことを考えている。

 最後に、集中、集中というが、究極の集中の状態ではどのようになるのだ、またどのような状態を究極の集中と言うのだ、と考えるかもしれない。
 私の友人も以前同じことを言っていた。何やら上司に「集中しろ」と叱られたらしい。その時の鬱憤を晴らすために語った言葉である。
 私の友人のことはさておくとしても、そのような状態が存在するのかも含め、これは非常に面白いテーマである。
 私なりの見解はあるが、皆さんも考えてみて下さい。


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by goodlife_3 | 2005-12-12 17:47
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