刺激の感受、そして反応

 我々の人生には実に様々な出来事が起こる。やる事なすこと全て上手くいく時もあれば、その逆に全て裏目に出てしまう時もある。また将来に渡って順風満帆、一かけらの心配もなさそうな時に、思ってもみなかった苦労を背負いこんでしまう場合もある。まさに「禍福は糾える縄の如し」である。

 我々は得てして、順調な時には元気溌剌として颯爽としているものであるが、一たび逆境になると途端に右往左往し、何をどうすればよいのか全く分からなくなってしまうものである。また自ら誤った選択を繰り返し、状況をより一層悪くしてしまうことも少なくない。

 順調な時、逆境の時と色々あるのが人生であるが、出来得るならば、どのような時にも常に冷静に対応し、正しい判断、行為が出来るようになりたいものである。

 普段の生活において、我々は様々な刺激に出くわす。そのほとんどは感じたことすら知ることもないが、我々の身体と心は確実に刺激を感受し、反応している。そして我々が刺激に対して反応するたびに、その刺激への反応として蓄積されていき、我々は次第に同じ刺激に対して同じ反応をするクセを身に付けていくようになる。

 どのような反応のクセを身に付けているかは、これはもう人それぞれである。
 例えば、私の知人の中には、歩いている時に自動車のクラクションを聞いただけで怒り出す者もいるし、テレビを見ながらしきりに文句を言っている者もいる。
 若い時には何とも思わなかった刺激に対して、歳を重ねるにつれ、自分でも気が付かない間に過敏に反応してしまうようになってくる。
 これらは我々が気が付かない間に蓄積された刺激への反応の型と呼べるものである。

  このように、我々は知らず知らずのうちに、同じ刺激に対して同じ反応を繰り返す反応(思考)のクセを身に付けてしまっている。そしてこの反応(思考)のクセは、年を取るにつれより強固なものとなり、我々の言動を左右する思考(反応)パターンとなる。

 それでもこの反応(思考)のクセが肯定的なものであればよいのであるが、困ったことに、その多くが否定的なものである場合が多い。

 何かがあると過敏に反応し不安になる、怒る、嘆き悲しむ等々である。そしてこれらの否定的感情や妄想に支配され、めったやたらと振り回されてしまう、あるいは同じことばかりを繰り返してしまう。
 しかもほとんどの場合、反応していることにすら気づくことがない。

 我々の心の健康を保つためには、刺激に対して過敏に反応してしまうクセを是正する必要があるが、長年にわたって形成されたこのような反応(思考)のクセを是正するということは簡単なことではない。
 それどころか、本人が何の刺激に対して、どのような反応をしているのかを理解していない場合がほとんどなのであるから、是正しようにも是正のしようがない。

 我々を悩まし、我々の心の健康を害する不安や怖れ、後悔や嘆き、また怒りや不満、疑いなどの思いや感情。
 ある程度の不安や怒りなどの感情を持つことは、我々が人間である限り避けられないことであるし、生きていくうえには必要なものであるのかもしれない。しかし、過敏な反応、過剰な反応は、自分を見失わせてしまう。また心の健康にとっても良いことではない。

 これらの否定的な思いや感情は、我々がいくら追い払おうと努力しても、すぐにまた我々の心を支配してしまう場合が多い。これは、我々が受ける刺激に対する反応のクセ、いわば我々の思考の型(パターン)として定着していることが多いためである。

 この刺激への反応(思考)の型(パターン)は、我々が反応すればするほど強固なものとなる。またそれに伴う感情もより大きく成長し、さらに強く我々を反応させようとする。
 そして終には、同じ反応の繰り返しから抜け出ることができなくなってしまう。
 しかも、同じ反応を繰り返していることにすら我々は気がつかない。

 よく同じ失敗ばかり繰り返すというが、これなどはまさに刺激に対する反応の型、つまり我々の思考パターンのなせる技であろう。

 自分がどのような刺激を受け、どのような刺激に対して、どのような反応をしているのかも知らない。これこそまさに無知である。
 自分を変える、性格を変えるということも、我々の刺激に対する反応(思考)の型を変えるということであると言えるであろう。

 しかし、長年にわたって形成された我々の思考(心)のクセや反応(思考)の型を変えるということは、前述のごとく、「さあ、今から肯定的に考えましょう」「このように考え方を変えなさい」というようなことでできる程、簡単なことではない。

 ノウハウ本やセミナーなどで、自分の感じていることを紙に書き、自分の考え方を知ろうということをやっているが、普通で知ることができる感情や思いなどは、反応の結果現れた感情や思いである。
 この反応の結果としての感情や思いをいくら知ったとしても、自分の反応の型や思考の型を知ることにはならないし、是正することなど到底できない相談である。
 しかも、短期間のセミナーなどで、できるようなものではない。これは断言しておく。

 このようなセミナーが趣味であればよいが、真剣であるならば、確実にお金のムダ使いである。

 自分の思考のクセを知り、是正していくという作業は、本当に地道なものであり、日々の積み重ねであり、終わりのないものである。しかも、正しい方法で行う必要がある。


 以下、刺激の感受から我々の反応として現れ出るまでの流れについて少し述べてみたいと思う。
 我々が刺激を感受してから反応として現れるまでには、微妙な時間差があるようである。
 このことは、私が日々心を制御する練習を実践する過程で得た理解である。

 簡単には、我々が五感から入る刺激を受けると、それがどのような刺激であるのかが検討され、このように反応しろという命令が出る、ということになる。

 五感から入る刺激とは、言わずと知れた、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚で感じ取る刺激のことである。
 この五感からの刺激については、我々が気づく場合もあるが、気づかない場合もある。

 ここでは、一体全体、どのような存在が気づくのかと言う話はしない。この話をすると、私とは何かという話になってしまうので、ここではとにかく、我々が気づかない刺激も入り込む、ということにしておく。
 また、五感から入り込む刺激の影響には関係なく、心自体において生起する感情や思いも取り上げないことにする。あくまで、五感から入り込む刺激に対する反応について述べることにする。

 五感からの刺激が感受されると、その刺激が検討され、刺激への反応が決定されることになる。
 どのように検討されるかというと、膨大に蓄積されている過去の記憶データが検索されるようである。
 似たような記憶データがない場合はどうなるんだという問題があるが、簡単にするためこの話も省くことにする。

 余談ではあるが、この記憶データは本当に膨大であり、私自身、日々、驚いているほどである。
 何故、こんなに古くて細かいことまで憶えているんだ、ということまで記憶されている。
 普段では、このような古くて細かな記憶は、我々の意識の表面には出てこないが、心の制御の練習をしている時には、意識して記憶を探っていく場合や、勝手に古い記憶が出て来る場合があり、その時に「ああ、こんなことがあった。こんなこともあった」と、驚くわけである。
 この記憶に関して言えば、何らかの感情や思いと結びついた事がらは、全て記憶されているのではないかと考えている。

 このように過去の記憶データが検索され、五感からの刺激に対する反応が決定される。そして反応の命令が、その反応を担当する部分に伝えられる。
 まあ、簡単に言えば上記のようになる。そして、この間、微妙ではあるが確かに時間差がある。
 この時間差は通常では気づくことがない、というよりも、早くて気づくことができない。
 それでは何故、私みたいな人間が確かに時間差があると気づいたのかというと、ある時この時間差を感じたのである。

 長い期間、毎日毎日、心を制御する練習をしていると、本当に様々なことを経験する。これも、そのうちの一つである。
 ある時、スローモーションのように、刺激の感受から反応までを観たのである。そして、なるほどと理解したのである。
 これは、ウソのような本当の話である。

 この刺激の感受から反応まででは、他にも面白いことがある。それは、決定された反応の命令は、その反応を扱う部分へ送られるようだ、ということである。つまり、我々が「私」と思っている意識には送られてこないのである。

 これのどこが面白いんだと思われるかもしれない。しかし、ここで言いたいことは、「私」という意識は、反応の結果が現れるまで、どのような反応であるかを知らない、ということである。

 例えば行動に関して言えば、自分の行動を「私」が知らずに行動するなんてことがあるはずがない、と当然思われることであろう。
 しかしである。刺激に対する反応としての行動でみる限り、反応命令を受けた行動が先で、その行動を「私」が認知する、という順序であるようだ。
 この間、ほんのわずかの時間差であるので、ほとんど意識することがないため、「私」が命令し行動に移っているように感じているだけのようである。

 「私」という存在が、反応としての自分の行動を知るのは行動の後である。当方としては、客観的な方法でこのことを検証したわけではないが、直感的には、このように感じるのである。
 ただし、このことはあくまで、刺激への反応として行動についてのことである。
 考え、そして行動に移る場合は、また異なる。
 先程、「私」という意識には触れないと言ったが、我々が「私」と思っている意識は、必ず微妙な遅れを伴うものなのである。この「私」という意識が「私である」という感覚は、必ず僅かではあるが過去のものなのであり、そして「私」という意識の連続が「私である」ということとなる。
 まあ、ややこしくなるのでこのあたりで、やめておくのが適当であろう。

 我々は生きている限り、心の中には、自分の意志とは関係なく、毎日様々なガラクタが入り込んで来る。今日のように刺激が溢れ返った世の中であればなおさらである。

 とにかく、我々を反応させよう、反応させようとして智恵の限りを尽くして刺激を生み出してくる。この作業がお金儲けに直結しているのでなおさらだ。また、多くの人間を反応させる刺激を作ったものが、マスコミでも大きく取り上げられる。

 考えてみると、何やら恐ろしい気もする。
 人を反応させようと懸命になっている人間も、他の刺激に反応させられてしまい、気が付くとその反応から抜けられなくなってしまうという、ミイラ取りがミイラになってしまうこともある。

 このような世の中においては、我々は、自身で自分の心を守っていかなければならない。




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by goodlife_3 | 2005-12-20 17:58
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