思考と欲求

 我々は実に様々な欲求を持ちながら、その時その時を生きている。そして我々が持つ欲求自体も、人により様々である。同じ事がらに対する欲求でも、100人おれば100通りの欲求が存在する。

 日本でもおなじみのアメリカの心理学者マズロー。この名前に関してはインテリの会話にちょくちょくと登場する名前であるので、ご存知の方も多いであろうと思う。人間は、生理的欲求、安全の欲求、親和の欲求、自我の欲求、自己実現の欲求と、段階的に欲求を抱いていくということを言い出した人物である。

 この考え自体は、漠然としていると言えば漠然としているが、当たりまえと言えば当たりまえのことである。餓死しそうな人間が、自己実現なぞ考えていればおかしいであろう。我々人間という動物は、それほど高尚なものでない。
(様々な意見があるであろうが、山本七平氏の「日本はなぜ敗れるか」という本は非常に興味深い内容である。興味のある方は目を通してみて下さい。)

  また、我々は何時からか欧米特にアメリカから入ってくるものをやたら珍重するようになったが、何もマズローはこのように言っていると言わなくとも、「衣食足りて礼節を知る」という言葉が、中国の古典から輸入され、日本にも古くから存在している。

 ちなみに書店の書籍を見ていると、非常に面白い現象が見受けられる。現在の我々日本人は、多くの東洋思想をアメリカ人に教えてもらっている、ということである。何もアメリカ人の書いた東洋思想を読まなくとも、本家のものを読めばよいと思われるのであるが、アメリカ人の書いた書籍しか目につかないので仕方がない。

 話をマズローのお説に戻す。
 マズローの言う、生理的欲求、安全の欲求、親和の欲求、自我の欲求、自己実現の欲求という漠然とした区切りの欲求のうち、自分がどの欲求の段階にいるのかは別にして、同じ段階の欲求にしても、人により抱く欲求はそれぞれである。

 独裁者のような気が狂ったような欲求もあれば、聖人君子のような欲求もある。過食症やアルコール中毒など、自分では制御できなくなってしまっている欲求もある。本当に人それぞれにより様々な欲求が存在する。

 しかし、何故、同じ事がらに対しても、人により抱く欲求が異なるのであろうか。
「我々が一人ひとりが違う人間であるから、生まれながらにして違う欲求を持っているのであろうか。これがよく聞く個性というヤツであろうか。我々一人ひとりが、それぞれ異なった真の自分というやつを持っているのであろうか。しかし、オレは真の自分などというものに、今までお目にかかったことがないぞ。そうか、オレは真の自分探しの旅に出なければならないのだ。」
と考えても、答えは出ないようである。

 私が考えるに、「何故、人により欲求が異なるのか」という答えは「我々の思考の型が違うから」という簡単なもののようである。

  我々人間も生き物である限り、単純な一つの欲求があるだけであるようだ。それは「生きる」という基本的な欲求である。この「生きる」という基本的な欲求が、その時々の我々の「思考」というフィルターを通して現れ出て来るようである。よく言われる、食欲、睡眠欲、性欲も、生きていく上で必要なものなのであろう。

 「思考」については、簡単ではあるが、前回の「刺激の感受、反応」で少し述べているので参照して頂きたい。

 また余談ではあるが、性欲については、生命の基本部分を繋いでいるのであろうと思える。
 何十億年か前に生命が誕生しばかりの時では、生命は永久に同じ固体を存続させる、という選択も取りえたのではないかと考えている。
 しかし、多分、同じ固体を存続させ続けたのであれば、傷みもするし、何よりも環境の変化に対応できないであろう。
 そこで、「古い個体」を捨て、「新しい個体」に変える方法として、子供を作るという選択をしたのでないかと考えている。以上余談まで。

 思考で我々がどのような欲求を抱くのかが決まるのであれば、思考は何の影響を受けるのかというと、これは我々が置かれてきた、または今置かれている環境の影響を受けるようである。
 この意味では、我々の思考というものは、一定のものではない。環境が変化すれば、思考も変化し、それに伴って欲求も変化する。欲求とはこのようなものなのである。

 ここで、多くの書籍やセミナーなどで犯されている間違いを指摘しておかなければならない。
 私もたまに目にすることがあるのであるが、書籍でも「本当の自分の欲求を知る」または「真に自分が欲しているものを知る」ということをやっている。しかし、欲求とは変化するものである、ということを理解する必要がある。また、変化しなければおかしいのである。我々生物は「生きる」ために環境に適応するように出来ている。
 従って、環境が変化すれば、「生きる」ために欲求が変化するのは当たりまえなのである。いや、変化しなければ生きていけない。

 自分の中に、変わらない「真の自分」がおり、その自分を発見するという、俗に言う「自分探しの旅」なるものは、永久にゴールのない、不毛な旅である。

 「真の欲求」を持つ「本当の自分」は、どこにもいない。また、そのような自分を探すことは不可能である。

 我々の欲求が、今までに形成された思考を通して現れ出て来るということからすると、子供の時に形成された思考が影響しているということも言える。この意味では、これが「真の自分」であると言えなくもない。まさに「三つ子の魂百まで」である。

 しかし、これ以外に、別の「真の自分」が存在するのではないかと探しても、そのようなものは存在しない。

 大体において、「自分」というものすら、存在しないのである。このことは前回の「刺激の感受、そして反応」でも少し触れたが、我々が「私」と思っている存在は、本当にはないのである。
 よく「無我になる」「無我の境地」とか言うが、わざわざ「無我」にならなくても、我々は元々「無我」なのである。元々、「私」という確固とした存在など、何もないのである。

 そんなバカな、と言われるかもしらないが、そうなのである。いや、そうとしか結論付けられないのである。これは論理的または科学的に言っているのではなく、私の体験的結論なのである。
 「私」という存在は、どこにもない。従って、「真の自分」というものなぞ、ありようがない。これが結論である。

 いや、オレはちゃんとここに存在するぞ、とお怒りになるかもしれないが、それは「私」と認識する部分が、「私が存在する」と勘違いしているだけなのである。
 しかも、前回にも言及したが、一瞬前の「私」しか認識できないのである。今この瞬間の「私」を、「私」と認識する部分が認識することは不可能なのである。「目」が「目」自体を見ることが出来ないのと同じである。

 だとしたら、オレ達、いや生物とは一体全体何なんだ、という当然の疑問が出て来る。つまり、我々を生かさせている大元は何なんだということである。
 正直言ってこれは非常に厄介な問題である。
私なりの答えはあるが、皆さんも考えてみて下さい。

 以上、我々が抱く欲求について簡単に説明したが、ここまでは、言ってみれば、我々の生物としての機能の話である。
 大げさな言い方をすれば、科学のお話である。
 ここで、話を終えてよいのであるが、長い期間に渡って心を見つめてきた「歩く哲学者」の私としては、もう少し何かを言うことができないといけないのかもしれない。

 確かに、欲求は我々の思考のフィルータを通して現れ出て来る。そして、その思考は今までの人生で蓄積された思考の型や、現在の環境に影響を受ける。
 これは脳の中の機能であり、科学的には、ここまでである。

 しかしである。これ以外に、我々の思考に影響を与えている微妙な存在がある。いや、「ある」のか「いる」のかも分からないし、「ある」とも「いる」とも断言はできないが、しかし、確かに感じる時がある。そう、これは感じる存在なのである。
 変なヤツと思われるといけないので、この話はこれぐらいにしておこう。



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by goodlife_3 | 2006-01-11 18:33
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