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思考と欲求

 我々は実に様々な欲求を持ちながら、その時その時を生きている。そして我々が持つ欲求自体も、人により様々である。同じ事がらに対する欲求でも、100人おれば100通りの欲求が存在する。

 日本でもおなじみのアメリカの心理学者マズロー。この名前に関してはインテリの会話にちょくちょくと登場する名前であるので、ご存知の方も多いであろうと思う。人間は、生理的欲求、安全の欲求、親和の欲求、自我の欲求、自己実現の欲求と、段階的に欲求を抱いていくということを言い出した人物である。

 この考え自体は、漠然としていると言えば漠然としているが、当たりまえと言えば当たりまえのことである。餓死しそうな人間が、自己実現なぞ考えていればおかしいであろう。我々人間という動物は、それほど高尚なものでない。
(様々な意見があるであろうが、山本七平氏の「日本はなぜ敗れるか」という本は非常に興味深い内容である。興味のある方は目を通してみて下さい。)

  また、我々は何時からか欧米特にアメリカから入ってくるものをやたら珍重するようになったが、何もマズローはこのように言っていると言わなくとも、「衣食足りて礼節を知る」という言葉が、中国の古典から輸入され、日本にも古くから存在している。

 ちなみに書店の書籍を見ていると、非常に面白い現象が見受けられる。現在の我々日本人は、多くの東洋思想をアメリカ人に教えてもらっている、ということである。何もアメリカ人の書いた東洋思想を読まなくとも、本家のものを読めばよいと思われるのであるが、アメリカ人の書いた書籍しか目につかないので仕方がない。

 話をマズローのお説に戻す。
 マズローの言う、生理的欲求、安全の欲求、親和の欲求、自我の欲求、自己実現の欲求という漠然とした区切りの欲求のうち、自分がどの欲求の段階にいるのかは別にして、同じ段階の欲求にしても、人により抱く欲求はそれぞれである。

 独裁者のような気が狂ったような欲求もあれば、聖人君子のような欲求もある。過食症やアルコール中毒など、自分では制御できなくなってしまっている欲求もある。本当に人それぞれにより様々な欲求が存在する。

 しかし、何故、同じ事がらに対しても、人により抱く欲求が異なるのであろうか。
「我々が一人ひとりが違う人間であるから、生まれながらにして違う欲求を持っているのであろうか。これがよく聞く個性というヤツであろうか。我々一人ひとりが、それぞれ異なった真の自分というやつを持っているのであろうか。しかし、オレは真の自分などというものに、今までお目にかかったことがないぞ。そうか、オレは真の自分探しの旅に出なければならないのだ。」
と考えても、答えは出ないようである。

 私が考えるに、「何故、人により欲求が異なるのか」という答えは「我々の思考の型が違うから」という簡単なもののようである。

  我々人間も生き物である限り、単純な一つの欲求があるだけであるようだ。それは「生きる」という基本的な欲求である。この「生きる」という基本的な欲求が、その時々の我々の「思考」というフィルターを通して現れ出て来るようである。よく言われる、食欲、睡眠欲、性欲も、生きていく上で必要なものなのであろう。

 「思考」については、簡単ではあるが、前回の「刺激の感受、反応」で少し述べているので参照して頂きたい。

 また余談ではあるが、性欲については、生命の基本部分を繋いでいるのであろうと思える。
 何十億年か前に生命が誕生しばかりの時では、生命は永久に同じ固体を存続させる、という選択も取りえたのではないかと考えている。
 しかし、多分、同じ固体を存続させ続けたのであれば、傷みもするし、何よりも環境の変化に対応できないであろう。
 そこで、「古い個体」を捨て、「新しい個体」に変える方法として、子供を作るという選択をしたのでないかと考えている。以上余談まで。

 思考で我々がどのような欲求を抱くのかが決まるのであれば、思考は何の影響を受けるのかというと、これは我々が置かれてきた、または今置かれている環境の影響を受けるようである。
 この意味では、我々の思考というものは、一定のものではない。環境が変化すれば、思考も変化し、それに伴って欲求も変化する。欲求とはこのようなものなのである。

 ここで、多くの書籍やセミナーなどで犯されている間違いを指摘しておかなければならない。
 私もたまに目にすることがあるのであるが、書籍でも「本当の自分の欲求を知る」または「真に自分が欲しているものを知る」ということをやっている。しかし、欲求とは変化するものである、ということを理解する必要がある。また、変化しなければおかしいのである。我々生物は「生きる」ために環境に適応するように出来ている。
 従って、環境が変化すれば、「生きる」ために欲求が変化するのは当たりまえなのである。いや、変化しなければ生きていけない。

 自分の中に、変わらない「真の自分」がおり、その自分を発見するという、俗に言う「自分探しの旅」なるものは、永久にゴールのない、不毛な旅である。

 「真の欲求」を持つ「本当の自分」は、どこにもいない。また、そのような自分を探すことは不可能である。

 我々の欲求が、今までに形成された思考を通して現れ出て来るということからすると、子供の時に形成された思考が影響しているということも言える。この意味では、これが「真の自分」であると言えなくもない。まさに「三つ子の魂百まで」である。

 しかし、これ以外に、別の「真の自分」が存在するのではないかと探しても、そのようなものは存在しない。

 大体において、「自分」というものすら、存在しないのである。このことは前回の「刺激の感受、そして反応」でも少し触れたが、我々が「私」と思っている存在は、本当にはないのである。
 よく「無我になる」「無我の境地」とか言うが、わざわざ「無我」にならなくても、我々は元々「無我」なのである。元々、「私」という確固とした存在など、何もないのである。

 そんなバカな、と言われるかもしらないが、そうなのである。いや、そうとしか結論付けられないのである。これは論理的または科学的に言っているのではなく、私の体験的結論なのである。
 「私」という存在は、どこにもない。従って、「真の自分」というものなぞ、ありようがない。これが結論である。

 いや、オレはちゃんとここに存在するぞ、とお怒りになるかもしれないが、それは「私」と認識する部分が、「私が存在する」と勘違いしているだけなのである。
 しかも、前回にも言及したが、一瞬前の「私」しか認識できないのである。今この瞬間の「私」を、「私」と認識する部分が認識することは不可能なのである。「目」が「目」自体を見ることが出来ないのと同じである。

 だとしたら、オレ達、いや生物とは一体全体何なんだ、という当然の疑問が出て来る。つまり、我々を生かさせている大元は何なんだということである。
 正直言ってこれは非常に厄介な問題である。
私なりの答えはあるが、皆さんも考えてみて下さい。

 以上、我々が抱く欲求について簡単に説明したが、ここまでは、言ってみれば、我々の生物としての機能の話である。
 大げさな言い方をすれば、科学のお話である。
 ここで、話を終えてよいのであるが、長い期間に渡って心を見つめてきた「歩く哲学者」の私としては、もう少し何かを言うことができないといけないのかもしれない。

 確かに、欲求は我々の思考のフィルータを通して現れ出て来る。そして、その思考は今までの人生で蓄積された思考の型や、現在の環境に影響を受ける。
 これは脳の中の機能であり、科学的には、ここまでである。

 しかしである。これ以外に、我々の思考に影響を与えている微妙な存在がある。いや、「ある」のか「いる」のかも分からないし、「ある」とも「いる」とも断言はできないが、しかし、確かに感じる時がある。そう、これは感じる存在なのである。
 変なヤツと思われるといけないので、この話はこれぐらいにしておこう。



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by goodlife_3 | 2006-01-11 18:33

刺激の感受、そして反応

 我々の人生には実に様々な出来事が起こる。やる事なすこと全て上手くいく時もあれば、その逆に全て裏目に出てしまう時もある。また将来に渡って順風満帆、一かけらの心配もなさそうな時に、思ってもみなかった苦労を背負いこんでしまう場合もある。まさに「禍福は糾える縄の如し」である。

 我々は得てして、順調な時には元気溌剌として颯爽としているものであるが、一たび逆境になると途端に右往左往し、何をどうすればよいのか全く分からなくなってしまうものである。また自ら誤った選択を繰り返し、状況をより一層悪くしてしまうことも少なくない。

 順調な時、逆境の時と色々あるのが人生であるが、出来得るならば、どのような時にも常に冷静に対応し、正しい判断、行為が出来るようになりたいものである。

 普段の生活において、我々は様々な刺激に出くわす。そのほとんどは感じたことすら知ることもないが、我々の身体と心は確実に刺激を感受し、反応している。そして我々が刺激に対して反応するたびに、その刺激への反応として蓄積されていき、我々は次第に同じ刺激に対して同じ反応をするクセを身に付けていくようになる。

 どのような反応のクセを身に付けているかは、これはもう人それぞれである。
 例えば、私の知人の中には、歩いている時に自動車のクラクションを聞いただけで怒り出す者もいるし、テレビを見ながらしきりに文句を言っている者もいる。
 若い時には何とも思わなかった刺激に対して、歳を重ねるにつれ、自分でも気が付かない間に過敏に反応してしまうようになってくる。
 これらは我々が気が付かない間に蓄積された刺激への反応の型と呼べるものである。

  このように、我々は知らず知らずのうちに、同じ刺激に対して同じ反応を繰り返す反応(思考)のクセを身に付けてしまっている。そしてこの反応(思考)のクセは、年を取るにつれより強固なものとなり、我々の言動を左右する思考(反応)パターンとなる。

 それでもこの反応(思考)のクセが肯定的なものであればよいのであるが、困ったことに、その多くが否定的なものである場合が多い。

 何かがあると過敏に反応し不安になる、怒る、嘆き悲しむ等々である。そしてこれらの否定的感情や妄想に支配され、めったやたらと振り回されてしまう、あるいは同じことばかりを繰り返してしまう。
 しかもほとんどの場合、反応していることにすら気づくことがない。

 我々の心の健康を保つためには、刺激に対して過敏に反応してしまうクセを是正する必要があるが、長年にわたって形成されたこのような反応(思考)のクセを是正するということは簡単なことではない。
 それどころか、本人が何の刺激に対して、どのような反応をしているのかを理解していない場合がほとんどなのであるから、是正しようにも是正のしようがない。

 我々を悩まし、我々の心の健康を害する不安や怖れ、後悔や嘆き、また怒りや不満、疑いなどの思いや感情。
 ある程度の不安や怒りなどの感情を持つことは、我々が人間である限り避けられないことであるし、生きていくうえには必要なものであるのかもしれない。しかし、過敏な反応、過剰な反応は、自分を見失わせてしまう。また心の健康にとっても良いことではない。

 これらの否定的な思いや感情は、我々がいくら追い払おうと努力しても、すぐにまた我々の心を支配してしまう場合が多い。これは、我々が受ける刺激に対する反応のクセ、いわば我々の思考の型(パターン)として定着していることが多いためである。

 この刺激への反応(思考)の型(パターン)は、我々が反応すればするほど強固なものとなる。またそれに伴う感情もより大きく成長し、さらに強く我々を反応させようとする。
 そして終には、同じ反応の繰り返しから抜け出ることができなくなってしまう。
 しかも、同じ反応を繰り返していることにすら我々は気がつかない。

 よく同じ失敗ばかり繰り返すというが、これなどはまさに刺激に対する反応の型、つまり我々の思考パターンのなせる技であろう。

 自分がどのような刺激を受け、どのような刺激に対して、どのような反応をしているのかも知らない。これこそまさに無知である。
 自分を変える、性格を変えるということも、我々の刺激に対する反応(思考)の型を変えるということであると言えるであろう。

 しかし、長年にわたって形成された我々の思考(心)のクセや反応(思考)の型を変えるということは、前述のごとく、「さあ、今から肯定的に考えましょう」「このように考え方を変えなさい」というようなことでできる程、簡単なことではない。

 ノウハウ本やセミナーなどで、自分の感じていることを紙に書き、自分の考え方を知ろうということをやっているが、普通で知ることができる感情や思いなどは、反応の結果現れた感情や思いである。
 この反応の結果としての感情や思いをいくら知ったとしても、自分の反応の型や思考の型を知ることにはならないし、是正することなど到底できない相談である。
 しかも、短期間のセミナーなどで、できるようなものではない。これは断言しておく。

 このようなセミナーが趣味であればよいが、真剣であるならば、確実にお金のムダ使いである。

 自分の思考のクセを知り、是正していくという作業は、本当に地道なものであり、日々の積み重ねであり、終わりのないものである。しかも、正しい方法で行う必要がある。


 以下、刺激の感受から我々の反応として現れ出るまでの流れについて少し述べてみたいと思う。
 我々が刺激を感受してから反応として現れるまでには、微妙な時間差があるようである。
 このことは、私が日々心を制御する練習を実践する過程で得た理解である。

 簡単には、我々が五感から入る刺激を受けると、それがどのような刺激であるのかが検討され、このように反応しろという命令が出る、ということになる。

 五感から入る刺激とは、言わずと知れた、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚で感じ取る刺激のことである。
 この五感からの刺激については、我々が気づく場合もあるが、気づかない場合もある。

 ここでは、一体全体、どのような存在が気づくのかと言う話はしない。この話をすると、私とは何かという話になってしまうので、ここではとにかく、我々が気づかない刺激も入り込む、ということにしておく。
 また、五感から入り込む刺激の影響には関係なく、心自体において生起する感情や思いも取り上げないことにする。あくまで、五感から入り込む刺激に対する反応について述べることにする。

 五感からの刺激が感受されると、その刺激が検討され、刺激への反応が決定されることになる。
 どのように検討されるかというと、膨大に蓄積されている過去の記憶データが検索されるようである。
 似たような記憶データがない場合はどうなるんだという問題があるが、簡単にするためこの話も省くことにする。

 余談ではあるが、この記憶データは本当に膨大であり、私自身、日々、驚いているほどである。
 何故、こんなに古くて細かいことまで憶えているんだ、ということまで記憶されている。
 普段では、このような古くて細かな記憶は、我々の意識の表面には出てこないが、心の制御の練習をしている時には、意識して記憶を探っていく場合や、勝手に古い記憶が出て来る場合があり、その時に「ああ、こんなことがあった。こんなこともあった」と、驚くわけである。
 この記憶に関して言えば、何らかの感情や思いと結びついた事がらは、全て記憶されているのではないかと考えている。

 このように過去の記憶データが検索され、五感からの刺激に対する反応が決定される。そして反応の命令が、その反応を担当する部分に伝えられる。
 まあ、簡単に言えば上記のようになる。そして、この間、微妙ではあるが確かに時間差がある。
 この時間差は通常では気づくことがない、というよりも、早くて気づくことができない。
 それでは何故、私みたいな人間が確かに時間差があると気づいたのかというと、ある時この時間差を感じたのである。

 長い期間、毎日毎日、心を制御する練習をしていると、本当に様々なことを経験する。これも、そのうちの一つである。
 ある時、スローモーションのように、刺激の感受から反応までを観たのである。そして、なるほどと理解したのである。
 これは、ウソのような本当の話である。

 この刺激の感受から反応まででは、他にも面白いことがある。それは、決定された反応の命令は、その反応を扱う部分へ送られるようだ、ということである。つまり、我々が「私」と思っている意識には送られてこないのである。

 これのどこが面白いんだと思われるかもしれない。しかし、ここで言いたいことは、「私」という意識は、反応の結果が現れるまで、どのような反応であるかを知らない、ということである。

 例えば行動に関して言えば、自分の行動を「私」が知らずに行動するなんてことがあるはずがない、と当然思われることであろう。
 しかしである。刺激に対する反応としての行動でみる限り、反応命令を受けた行動が先で、その行動を「私」が認知する、という順序であるようだ。
 この間、ほんのわずかの時間差であるので、ほとんど意識することがないため、「私」が命令し行動に移っているように感じているだけのようである。

 「私」という存在が、反応としての自分の行動を知るのは行動の後である。当方としては、客観的な方法でこのことを検証したわけではないが、直感的には、このように感じるのである。
 ただし、このことはあくまで、刺激への反応として行動についてのことである。
 考え、そして行動に移る場合は、また異なる。
 先程、「私」という意識には触れないと言ったが、我々が「私」と思っている意識は、必ず微妙な遅れを伴うものなのである。この「私」という意識が「私である」という感覚は、必ず僅かではあるが過去のものなのであり、そして「私」という意識の連続が「私である」ということとなる。
 まあ、ややこしくなるのでこのあたりで、やめておくのが適当であろう。

 我々は生きている限り、心の中には、自分の意志とは関係なく、毎日様々なガラクタが入り込んで来る。今日のように刺激が溢れ返った世の中であればなおさらである。

 とにかく、我々を反応させよう、反応させようとして智恵の限りを尽くして刺激を生み出してくる。この作業がお金儲けに直結しているのでなおさらだ。また、多くの人間を反応させる刺激を作ったものが、マスコミでも大きく取り上げられる。

 考えてみると、何やら恐ろしい気もする。
 人を反応させようと懸命になっている人間も、他の刺激に反応させられてしまい、気が付くとその反応から抜けられなくなってしまうという、ミイラ取りがミイラになってしまうこともある。

 このような世の中においては、我々は、自身で自分の心を守っていかなければならない。




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by goodlife_3 | 2005-12-20 17:58

集中する、ということ

 「集中する」ということは、心を制御する上で非常に重要な要素である。
 一般的には「集中力」という言葉を使用する。集中力がある、または集中力がない、というような使い方をされるが、私が理解しているかぎり、別に集中するための何かの力があるわけでもないようだ。
 握力や背筋力などでは、確かにその部分の筋力という具体的なものが存在するが、集中力に関して言えば、具体的な何かの力というものでもない。

 それでは何故「集中力」に差異が現れてくるのか。また、自分には集中力がない、と思っている人がいるのか。
 これは、我々自身の意識の向けた方と、エネルギーの使い方の違いによるものである。
 そしてもう一つの要素として、我々の心のクセが関係している。

 断言することはできないが、大体において、集中力がない人というのは、間違った対象に意識を向けているか、ある対象に能動的にエネルギーを使用する方法を知らないか、または意識があっち飛びこっち飛びしてまう心のクセがついてしまっているからであるようだ。
 しかしながら、この「集中」という行為は心の技術であり、習得が可能なものである。

 まず、間違った対象に意識を向けているとは、集中しよう集中しようという思いに意識を向けていたり、何かの行為をする場合にふと心に生じてくる不安などの感情や思いに意識を向けていたりする場合などがあげられる。

 何かの行為をする場合に、失敗してはいけないという思いに意識が向き、集中できないということはままあることである。
 これは我々が、自分の心に生起する感情や思いに囚われてしまうことにより起こることである。

 自分の心に生起する感情や思いに囚われないようにするということは、自分の心を制御し、心の健康を保つうえでも非常に重要なことである。
 しかしである。このことは口でいうほど簡単なことではない。そのことは、我々自身がよく知っている。
 簡単な例でいうならば、禁煙である。「タバコを吸いたい」という思いに囚われなければ、禁煙など簡単にできてしまう。しかし現実を見てみると、多くの人が禁煙できないでいる。不眠なども、この部類に入るものであろう。

 意識を向けてはいけない対象に意識を向け、そしてその対象にエネルギーを使って集中していってしまう。意識を向けてはいけない感情や思いに打ち克とうという努力も、実は、明確にその感情や思いを意識しているため、無駄な努力となる場合が多い。

 この意識を向けてはいけない感情や思いに対処するには、そのような感情や思いに囚われない心の技術(コツ)を習得する必要がある。心の技術といっても、このコツは簡単なものであり、誰でもが比較的簡単に体得できるものである。

 心を制御する、心を健康に保つには、いくつかのコツを体得していく必要がある。
 例えば、必要のない感情や思いをやり過ごし囚われないコツ、心に生起する様々な感情や思いを観て知ることにより囚われないコツ、我々が持つエネルギーを使うコツその他であるが、これらのコツは練習により誰でも体得していけるものである。

 ただし、これらの技術は体得しコツを掴む必要がある。頭で理解しようとするだけでは、実際には使うことができない。
 頭だけで理解しようとすることは、解説書だけを読みスポーツ選手になろうとするようなものである。しかしながら、巷では、この頭だけでの理解を促すものが氾濫している。
 また、短期間で習得できるものもあるが、ほとんどのコツがあるレベルに達するまでには、一定期間の練習を要する。さらには、あるレベルに達したからといって、終わりのあるものでもない。

 前述の集中における、意識を向けてはいけない対象に囚われないようにするには、ほとんどの場合、必要のない感情や思いをやり過ごし囚われないコツ、心に生起する様々な感情や思いを観て知ることにより囚われないコツで対処していくことができる。

 我々の心は途絶えることなく様々な対象に意識を向けている。
 意識とは何かという大命題はさておくとして、我々の心とは、生起しては消滅し、生起しては消滅する意識が連なったものである、ということが言えるのかもしれない。

 この心に生じる意識には様々なものがある。良い感情や思いもあれば、怒りや不安などの出て欲しくない感情や思いもある。
 ここで重要なことは、この心に生起する感情は我々の意思では、制御できないということである。
 あるハウツー本やセミナーなどでは、心に悪い感情を生起させないようにする、などとやっているのもあるようであるが、これは全く無知としか言いようがない。このようなことを見ただけでも、何も自分では体験したことがない、ということが断言できる。
 我々の心に悪い感情や思いを生起させないようにするには、我々の五感を全てシャットアウトしてしまわなければならない。

 五感から入る刺激がどのように心に影響を与えるのかについての私なりの理解はまた別の機会に述べることとして、我々が五感から入る刺激を全てシャットアウトするということは、生きている限り不可能なことである。
 従って、我々が生きている限り、出て欲しくはないが、不安その他のいらない感情や思いが心に生起することは仕方がないことである。

 しかしである。この生起した感情や思いに囚われないでいることはできる。
 これは、心を制御する鍛錬をした者は知っていることであるが、囚われなければ心に生起したどのような感情もやがて消滅していくのである。そう、づっと存在する感情や思いというものはないのである。
 そこで前述の必要のない感情や思いをやり過ごすコツ、心に生起する様々な感情や思いを観て知るコツで、心に生起する思いや感情に囚われないようにすれば、これらの感情はやがて消滅していく。

 これらのコツは一見似たようなものであるが、全く異なるものである。
 どちらが高度なコツというのもおかしなものであるが、実際には「観て知るコツ」はかなり難しい。前回の「心の制御」でも述べたように、心に生起する微小な感情も知ることができなければならないし、どのような感情や思いにも囚われない技術を持っていなければならない。「観て知るコツ」を体得するには「やり過ごすコツ」を体得しておく必要があり、正しい方法で段階的に体得していく必要がある。それだけ時間のかかるものであり、終わりのないものでもある。
  また、これらのコツは、先ほども述べた通り、正しい練習をして体得しなければ使うことができないものである。

 余談ではあるが、先程の禁煙や不眠などのものであれば、これらのコツで対処できるものであろうと考える。
 例えば禁煙程度(禁煙できない人にはごめんなさい)の吸いたいという思いであれば、それほど強い感情ではない。
 私も20年以上タバコを吸っていたが、やめようと思ったその日から簡単にタバコをやめた。
 明らかに病的なものは別にして、禁煙や不眠をはじめ、ほとんどのことが、心を制御するコツで自ら対処ができるものである。

 ここまで簡単にではあるが「集中する」場合における、間違った対象に意識を向けない、ということについて説明したが、これだけでは行為に能動的に集中するということにはならない。
 行為に能動的に集中するには、我々のエネルギーを集中する対象に向けて使うように出来なければならない。

 「間違った対象に意識を向けない」とは、例えば、道端から多くの人が通行する様子を、ある特定の人に意識を向けないで見ているようなものである。しかし、エネルギーを使うとは、道行く人の数(あるいは特定の種類の人)を数える行為をするようなものである。

 我々がある行為に集中する場合には、「間違った対象に意識を向けない」ということと共に、エネルギーをある方向へ向けるということが必要であるし、我々が集中している場合には自然とこの両方のことを行っているものである。

 ここでいうところのエネルギーとは、我々が元々持っているエネルギーのことである。
 例えば、喜怒哀楽も、同じ根から出ているエネルギーである。
 このエネルギーが正しい方へと出れば正しい感情や思いや欲求となるし、間違った方へ出れば間違った感情や思いや欲求となり現れ出て来る。通常の生活において、このエネルギーがどの方向へと出安いかとなると、我々各人の刺激に対する反応(思考の型)にも関係してくることであり、また別の機会に説明することとする。

 普通、集中力があるという人は、このエネルギーを一定の対象に向けるのが上手いとともに、エネルギーのレベルの使い分けが上手い人を指す。

 エネルギーを一定の対象に向けるのが上手になるには、「間違った対象に意識を向けない」ということと共に、もう一つの要素が関係してくる。
 それは、どれだけ長く我々の意識をある対象に止めることができるか、ということである。 これは、我々の心のクセというもので、なかなかやっかいな代物である。

 我々の心は、常に、あっち飛びこっち飛びし、ご存知のようになかなか定まることがない。放っておくと歳とともにそれが強固なクセになり、何かをしようと思ってても、意識があっち飛びこっち飛びし、集中することができなくなってしまう。
 簡単な例では、例えば読書。読もうとすると、「そうそう明日・・・」などと別のことが頭に浮かんでくる。

 歳をとり集中力がなくなったとよく聞くが、長年の間に強固なものとなった、あっち飛びこっち飛びする心のクセが原因である場合が多いようだ。
 心があっち飛びこっち飛びすることにより、間違った対象に意識を向けてしまう。そして、その対象に囚われ、エネルギーを持って間違った対象に集中してしまう、ということになってしまう。
 もちろん、脳が退化してしまい、何をするにも脳が拒絶をしてしまう人もいるようであるが。

 このような、あっち飛びこっち飛びしてしまう心のクセを直すには、やはり練習が必要である。これは長年の間についてしまったクセであるので、練習により直すことは可能である。

 エネルギーはというと、これは我々が生きている限り持っているものである。
 歳をとり、怒りっぽくなったなどということは、エネルギーを持っている証拠である。

 また、このエネルギーにはレベルがある。レベルというよりも、現れ出るエネルギー量という方がよいかもしれない。
 例えば、怒りのエネルギー。これはなかなか強烈なエネルギーであるが、同じ怒りのエネルギーでもレベルがある。怒っている間に次第に怒りの感情が増大してくるということは、よく経験することであろうと思う。本人も何故、これほど怒っているのか自分でも分からない場合が多い。
 このように普通ではなかなか制御できない我々の持つエネルギーであるが、このエネルギーも練習により次第に制御することができるようになる。

 以上、「集中する」ということについて簡単に述べたが、前述のごとく、この「集中」ということと「心を制御する」ということとの間には密接な関係がある。
 正しい集中ができないと心が制御できないし、心が制御できないと正しい集中ができない。
 特に歳をとればとるほど、そうなってくる。
 子供などでは、意識せずとも、その行為に没頭している。まあ、自分の興味のあるものだけを行っているということもあるが、歳をとるにつれて興味のあるものにも集中できなくなってくる。そこで出る言い訳が決まって「考えることが沢山あるから」ということになる。こういう人は何をやっていても、沢山のことを考えている。

 最後に、集中、集中というが、究極の集中の状態ではどのようになるのだ、またどのような状態を究極の集中と言うのだ、と考えるかもしれない。
 私の友人も以前同じことを言っていた。何やら上司に「集中しろ」と叱られたらしい。その時の鬱憤を晴らすために語った言葉である。
 私の友人のことはさておくとしても、そのような状態が存在するのかも含め、これは非常に面白いテーマである。
 私なりの見解はあるが、皆さんも考えてみて下さい。


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心の技術(自分の心を制御する)

 今、巷では癒しブームであるようだ。どこいらじゅうで「癒し」という言葉を目にする。心のケアなる言葉を聞き出したのも随分と前のことで、ストレスという言葉にいたっては、完全に一般的に定着した感がある。
 昨今の「心」ブームの背景には、何やらお金儲けの「心」が存在し、我々を操っているような臭いが感じられなくもない。
 まあ、それでも、心の健康に注目することはよいことであると考える。

 しかし、心についてのやっかいなところは、心というものが誰の目にも見えないものである、ということである。
 これが身体であれば、見えない場合もあるが、悪い部分が自分にも他人にも見える、または察せられる場合が多いのであるが、心ではこうはいかない。とにかく、手でさわったり、目で見たりして確認するわけにはいかないのであるから、いわば全てが推論の域を出ないものである、と言うことができるかもしれない。

 例えば、書店の心に関するコーナーには、本当に様々な本が並んでいる。本の中で述べていることも様々である。100人いれば、100通りの論が展開されている。
 そして面白いことに、この中でたまたま売れた本があると、次から次へとその本の焼き写しただけの本が出版されてくる。
 この中には、明らかに、そのことに関して研究したりデータをとったりしたことなど、今まで一度もないであろうと思われる人達が、世に溢れ返っているノウハウ本という形で、次々と同じ趣旨の本を出してくる。
 まあ、ノウハウ本一般に言えることであるが、この類の書籍は、毒にも薬にもなるものではないので、それはそれでよいのかもしれない。書いている本人も別に、自分が書いたことを実践しているわけでも、信じているわけでもなく、ただ本を書くという目的のために書いているのであるから。

 例えばである。今主流をしめているらしい、潜在意識という意識。
 様々な本で、潜在意識という言葉を目にするが、この潜在意識なるものを見た者は、いまだかつて一人もいない。どこにある意識なのかも誰も知らない。
 表面に出ている意識の下にある意識であるそうだが、心というものが、そのように階層構造をしているものである、ということを実際に目にして確認した者はいない。
 ただ、今主流をしめている考え方である、というだけのものである。将来的には、また違った論が主流をしめているかもしれない。

 我々が事実と思っている「事実」なるものは、我々の時代の多くの人が「それが事実である」と、ただ思っている事がらにすぎない。
 コロンブスの時代には、地球は四角であると、皆信じていた。今でも地球は四角だ協会というものがあるそうであるが、この人達にとっての事実とは、「地球は四角い」ということである。ただ、少数派であるので、誰も相手にしないだけである。
 我々が習う歴史を見ても、我々が子供の頃に文部省検定の「教科書」で習い、試験にまで出ていたことと、かなり違ってきている。

 従って、潜在意識という考えが主流だからと言って、数学の定理のように考えるのは、おかしいような気もする。
 また、この潜在意識は、人生をも左右するらしい。なかなか恐い存在のようだ。

 この潜在意識が存在するのか、しないのか。また、存在するとしてこの潜在意識なるものが、どのように我々に影響を及ぼすのかは知らない。
 しかし、私の経験からでは、心の健康を保つ、自分の心を制御する、あるいはそのトレーニングをするということを目的とするのであれば、心がどのようになっているのかという知識は、あまり関係ない。
 例えば、「腕立伏せ」という運動をするのに、腕の筋肉がどのようになっており、どのような仕組みで筋肉が強くなっていくのか、などと考えながら腕立伏せをするものもいないであろう。これと同じことである。
 心の健康を保つ、心を制御するための具体的な方法があるなら、「何故」はあまり重要ではない。

 自分の心を制御する、心の健康を保つということは、いわば心の技術というものである。またこれは誰でも身につけることができるものである。
 ただし、やはり技術であるので、この技術を身につけるには、少しの練習が必要である。
 何をしても一切病気にならないという人がいるように、生まれつき心の健康が保てるような心の構造になっている人もいるかもしれないが、これだけ心の健康が叫ばれているのを見ると、多くの人にとっては、運動と同じように練習が必要なようである。

 ただ、心を健康に保つように練習するといっても、前述のごとく心というものは目に見えるものではなく、運動のように進捗状況がわかるものでもない。

 身体の健康を保つのであれば、様々な説はあることはあるが、規則正しい生活をし、バランスよく食べ、適度な運動をする、という方法に集約される。また、そのための具体的方法も、それぞれの症状に応じて示すことができる。
 されには、身体に何らかの悪い徴候が見られるならば、その原因を取り除けばよい。

 しかしながら、心に関しては、健康を保つための具体的練習方法や施策をはっきりと示すことが難しいようだ。
 多くが、前向きに考えましょう、笑顔でいましょう、良い言葉を口にしましょう等、抽象的な言い回しに終始している。
 リラックスしましょう、ストレスをためないようにしましょう、このように考えましょう等といわれても、それができないから悩んでいる。そのための具体的な方法を教えてくれということになる。

 リラックスするために、今はやりの「癒し」サービスをためしても、その時には気持ちよいのであるが、またすぐに元の状態に戻ってしまう。
 そのため、また「癒し」サービスへ通う。何回か通っている間に、さらに「強烈」な「癒し」が必要となってくる。
 こうなると、他人の心を操作しようと考える悪い連中が忍び寄って来ても、分からなくなってしまう。自分が苦痛と思っているものから逃れるため、何かに依存してしまうことになると、自分で自分の囚われに気づき取り除かない限り、なかなかその状態から抜けることはできない。
 自分の心の健康を保つ、または自分の心を制御するために、自分の心以外の力を借りようとすると、間違った方向へと進んでしまう。

 実際の話、心を健康に保つ、心を制御する、あるいはその為のトレーニングをする上において、「心地よさ」や「リラックス感」という感覚は、あまり関係がない。
 例えば、心のトレーニングをする時では、気持ちよかろうが、気持ち悪かろうが全く関係がない。リラックスしているかどうかも関係がない。その場限りの「癒し」とは違うのである。

 また、人間の脳はどのような「心地よさ」や「リラックス感」にもやがて慣れてしまう。タバコやお酒でも、初めての時には、頭がくらくらとするが、やがて慣れてくる。これと同じだ。
 この肉体的または精神的な「心地よさ」や「リラックス感」を追い求めてしまうと、以前の「心地よさ」や「リラックス感」を得るために、「さらに強い」刺激が必要となってくる。
 怪しげな団体がよく使う手口である。注意する必要がある。

 「心地よさ」や「リラックス感」など、実際には、どのような方法でも簡単に得ることができるものである。
 しかし、体験したことが無い者には、先程のタバコやお酒と同じように、なかなか強烈なインパクトを与えるようだ。肉体的な「心地よさ」に関しては、特にそうである。
 生命が子孫を残すために、肉体的快感を報酬とする方法を採用したのもうなづける。それだけ肉体的刺激とは強烈なものなのであろう。
 しかし、前述のごとく、ほとんどの感覚において、同じ刺激ではやがて慣れてしまう。そこで、以前の「心地よさ」や「リラックス感」を得ようと、さらなる刺激を求めるようになってしまう場合がある。

  また、心と身体は一体であると、やたら身体を鍛えている人達もいる。
 確かに心と身体はつながっている。心に感情が生起すると、身体に微妙な変化が現れる。
 特に、首筋の後ろ側に微妙な感覚が現れる。

 余談ではあるが、プロのスリは、人の首筋の後ろ側を観察しながら仕事をするらしい。すられている方の人は気がついていないが、身体と心は刺激に対して反応しているのであろう。

 この身体に現れる感覚は、普通では感じることは難しいが、心を制御する練習をある一定期間行うと、知ることができるようになってくる。
 怒りや悲しみなどの大きな感情であれば、普通でも知ることができるであろうが、生まれては消え、生まれては消えしている心に生じる微妙な感情と、それにより生じる体の感覚を知るには、やはり練習が必要である。

 話はそれるが、我々の五感と心は24時間休むことなく活動している。普通では気づくことがないが、五感から取り込まれる様々な刺激に対して、様々な微小な感情が心に生起している。
 そして、長年の間に積もり積もって、我々というものを形作っている。
 この心に生じる微小な感覚を知るには、やはり練習が必要である。
 よくセミナーやノウハウ本などで、自分の心を知ろうということをやっているが、この心に生じる微小な感覚を知ることができるようになるまでには、それ相当の時間がかかる。
 心の問題に関しては、目に見えるものではないので、すぐにも全員がフルマラソンを走れるかのように、様々なことが行われているようである。

 この前も「一体どのようなことをやっているんだろう」と思い、今流行りのセミナーに行ってきた。そこでもやはり、講師の人が自分の心を知ろうとやっていた。
 そこで私はその講師の人に「あなたは自分の心が今感じていることを知ることができます」と質問すると、講師の人が「できます」というから、「それでは今あなたは、自分が、まばたきをしたことを知っていますか、自分の足の小指が今何をどのように感じているか知っていますか」と質問をした。
 講師の人は「こいつはバカか」というような顔をして、「そのようなことと自分の心を知ることとは何の関係があるのだ」と言ってくれた。
 この一言で、この講師の人は、一切自分の心に生起する感情を知ることができず、自分の心を制御することもできない、と知ることができた。
 私が何を言おうとしているのかは、心を制御するための正しい練習をした人には、すぐに分かってもらえることであると思う。

 話がかなり横道にそれたが、心と身体が一体であるから、健全なる身体には健全なる精神がやどるとばかり、しゃかりきになって身体を鍛えている人達。
 これが、身体の健康を維持する程度の運動であればよいのであるが、度を越して運動中毒のように鍛錬している人や、何かにとりつかれたように健康食品などを口にしている人もいる。

 前述のごとく、確かに心と身体は連動している。また、身体の健康が損なわれると、心が暗くなってくるのも事実である。しかし、どのようにしゃかりきになって身体を鍛えようと、肉体は年齢とともに衰えていく。これは自然の理である。

 子供の頃や若いうちは身体を鍛えることにより、心を健全に保つべきであると考える。私は今、子供の頃の運動(体育)は、健全な心を養う上で非常に大切なものであろうと考えている。
 これは、子供の頃や若いうちは、まさに心と身体が一体化しており、身体を鍛えることにより、健全な心を養うことができると考えているからである。

 しかしである。歳とともに身体は衰えてくる。身体の衰えとともに、心と身体の一体化が徐々に崩れ出してくる。
 心が、あっち飛び、こっち飛びして、不安定になってくる。
 これではいけないと、身体を鍛えても、若い頃のような身体に戻ることはない。
 人間以外の動物が、身体の衰えとともに死ぬというのも、何となく理解できるような気もする。
 しかし、我々人間は、身体が衰え出してからも何十年と生きて行きなければならない。

 それでは、どのようにして、心の健康を保てばよいのであろうか。
 それには、運動をし身体を鍛えるのと同じように、心の健康を保つために心の運動(練習)をすれば良い。
 ある年齢からは、心そのものを鍛える練習が必要になってくる。

  さらには、心のトレーニングをすることにより、逆に身体によい影響を与えることができるようになる。
 簡単な例では、身体の様々なコリが取れてくる。
 歳をとると身体のあちこちが凝り出してくる。マッサージをしても、その時はよいのであるが、またコリ出してくる。
 病的な身体のゆがみということもあるが、ほとんどの身体のコリは、感情と結びついたコリである場合が多い(変な言い方であるが)。
 その証拠に、心のコリを取り除くと、自然と身体のコリも取れてくるようになる。

 このように心の健康を保つには、年齢とともに、その方法が異なるもののようである。
 私は今40代であるが、40歳を過ぎたあたりから、このように考えるようになった。
 心の健康を保つために、具体的な心の運動をし、身体の健康を保つために適度な運動をする。

 ここで重要なのは、心の運動といっても具体的なものでなければならない、ということである。
 前述の「このように考えましょう」というような具体的方法がない抽象的なものではなく、腕を鍛えるには腕立伏せをすればよい、脚を鍛えるには走ればよい、というように具体的なものであり、またどのように腕立伏せや走ればよいのかという練習方法である。

 歩く哲学者の私としては、この何十年の間に、生活の中で行う様々な心のトーレーニングを発見し、知人にもその都度教えてあげている。
 この中には、歩きながら行い身体の運動にもなるものもあれば、座りながら行えるものもある。
 原理自体は非常に単純なものばかりである。まあ、身体の健康も原理は単純なものなのであろうが。

 今回は、前回の「歩く哲学者」を読んだ方から、「心を制御する」とはどのようなことかと質問があったので、ザッとであるが述べてみた。
 ただ、心というものは、非常に広いものであり、簡単に「このようなものだ」とは言い切れないところがある。ここで述べている事がらは、私自身が心の練習の過程で得た理解を簡単に述べたものである。



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by goodlife_3 | 2005-12-04 12:33

歩く哲学者

 私は歩く。とにかく毎日歩く。
 誰だって歩いているさ、と言われるかもしれないが。歩く距離が違う。一般の人の万歩計のレベルではない。
 この十年以上、平均すると、多分、一日20キロ前後は歩いている。もちろん、日によって歩く距離が違う。一日10キロ程度の時もあれば、20キロ程度、30キロ程度の時もある。さらには40キロ以上歩く時もある。一年分の距離を365日で割り平均して、一日20キロ前後の距離になると思う。

 何故毎日これだけの距離になるかというと、よっぽどのことが無い限り電車に乗らないからである。
 大阪には、東京の山手線を縮小したような環状線というものがある。この環状線内はもちろんのこと、大阪の天王寺区を拠点にして、北は江坂という場所辺りまで、南は堺辺りまでの距離であれば往復歩く。
 平日でも、これだけ歩く私であるが、別に運動靴にトレーニングウエアを着て歩いているわけでもない。背広にネクタイ、ビジネスシューズといでたちで、何十キロとあるいている。
 また、休日には散歩をする場合があるが、この距離も半端ではない。4時間や5時間歩くのは当たりまえ、大阪から暗がり峠を越えて奈良までも、年に何回か歩く。

 地球一周が4万キロとして、今までで、地球をゆうに3周以上した距離を歩いているのではないかと思う。
 私は今40代であるが、20代の頃はもっと歩いていた。日本国内だけではなく、海外にも足をのばし歩いた。
 100日強の日数をかけ、4000キロ以上の距離を、熱風が荒れ狂う真夏の砂漠地帯を突破して歩いたこともある。海外だけで1万キロ以上は自分の足で歩いている。
 このような私は、多分、マラソン選手を除いては、今の日本で、自分の足で移動する距離が最も長い人間ではないかと考えている。どこかのシューズメーカーがモニターでシューズでも持ってきてくれないかと考えたりする。

 こんな私であるから、自分自身を「歩きの専門家」または「歩く哲学者」と呼んでも差し支えないと考えている。別に歩くことでお金を儲けているわけではないので、「歩きのプロ」ではなく、やはり「歩きの専門家」であろうと思う。
 私が自分自身を「歩きの専門家」と呼ぶには、歩く距離以外にも別の理由がある。
 今まで何十年もこれだけの距離を歩いてきたのであるから、歩いている間に様々なことを発見している。様々なテクニックという方がよいかもしれない。
 歩くことにより、自分の心を制御する方法。または、自分の心を制御するための、歩きながら行うトレーニング方法。歩きながら集中力を養う方法。落ち込んだ心を高揚させる方法や、興奮した心を静める方法。他にも沢山の歩きながら行う訓練方法やテクニックを発見している。

 これらの方法は折りに触れて、知人に教えてあげているが、沢山のテクニックがあるため全てを教えることはなかなかできない。
 この間も、「悩みがあり、休みの時には、気分転換に散歩でもしようと思うが、散歩をすると余計にぐちゃぐちゃと考えてしまい、かえって疲れてしまう」という知人に、自分の心を制御して歩きながら、精神的疲れを取り除く方法を教えてあげた。
 また、その方法を普段の生活でも歩く時に行うと、ぐちゃぐちゃと考えてしまう頭の中のどうどう巡りや、心の中の不安などを取り除くよいトレーニング方法ともなる。この方法などは歩いている時以外にも実行できるのであるが、どうせ通勤や通学その他で歩くのであるから、その時のついでに行えばよいものである。

 一般的に歩くことは気分が壮快になると言われているが、悩みや不安、ストレス等のある場合には、散歩することにより逆に精神的に疲れてしまう場合がる。この理由は、歩くということが、単調なリズム運動であるというところにある。
 単調なリズム運動の繰り返しでは、ある時間行うと、自分の思考があっち飛び、こっち飛びして様々な思いが頭の中に湧き出てくるものである。単純作業や単純動作の繰り返しをしている時に、気が付けば他のことを考えながら行っていた、という経験が皆さんにもあると思われる。これと同じことである。

 多くの動作の要素を含む運動であれば、その違う動作毎に集中するので、他のことを考えながら行う、ということはあまりないが、散歩(歩く)という単純なリズム運動の場合は、気が付けば他のことを考えている場合が多い。しかも、自分が悩んでいることや、思い煩っていることがあれば、ついついその事を考えてしまう。気分を変えるために行った散歩が、かえってストレスをためてしまうことになり、これなら家でテレビでも見ていた方がよかった、ということになってしまう。
 これは、自分の心を制御して歩きながら、不安やストレスを取り除く方法(テクニック)を知っているかどうかである。歩きながら行うことができる様々な方法やテクニックを知っていれば、どのような時にも、歩くということは非常によい運動であろうし、また肉体的にも精神的にもよいトレーニングとも方法ともなりうる。

 多くの人が歩いているのを見かける。運動のために歩いている人も多い。
 しかしである。歩きの専門家である私から見ると、わざわざ健康を害するために歩いているという人も多く見受けられる。いや健康を害するどころか、バカになる歩き方をしている人も多い。
 歩けば歩くほどバカになる。これは悲劇である。
 また、わざわざ自分の心を暗くさせる歩き方をしている人も多い。これは一般的にいう、うつむいてとぼとぼと歩く、という歩き方なのではない。前を見ながら歩いている人でも、自分の心を暗くしてしまう歩き方をしている人が多い。
 なにやら「うつ」の人が多いと聞くが、毎日行う歩くという行為で、自分の心を暗くしてしまっている人も多いのではないかと考える。これなどは、歩き方を変えれば元気が出て来るものであり、それが習慣となるものなのであるが。

 これだけ歩いていれば、街中で様々な人にでくわす。中でも多いのが、こちらが追い抜かそうとすると競争する手合いである。
 こちらは、長い距離を歩くので、自分の一定のリズムで歩いている。しかし、追い越されそうになって競争する連中は急にスピードをあげる。そして先に行くが、何百メールかすると必ずスピードが落ちてきて、こちらが追い抜き返すことになる。
 この手合いにはいつも思うことであるが、何故追い抜かれそうになるとスピードをあげて競争しようとするのであろうか。
 負けず嫌いというよりも、多分、神経質なのではないかと考えている。いや神経質というよりも、今までの人生の間に何かに囚われてしまったのであろう。

 この何十年の間に発見した多くの歩きのテクニックや方法であるが、何らかの機会があれば、様々な人に教えてあげるのもいいかなと考えている。


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by goodlife_3 | 2005-11-28 15:53

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登録番号:特許第3257771号

出願日 :平成10年1月26日

出願番号:特願平10-29189

公開番号:特開平11-208145

名  称:製本キットおよびオリジナル本の作成方法

(権利内容)
 製本機器などの特別の装置を必要とせず、通常のパソコンとプリンターで、市販されているハードカバーの本と遜色のないハードカバー本を作成できる、製本キットとその製本方法の特許です。特許明細書ではオリジナル絵本を実施例として説明していますが、絵本のみならず写真集やその他様々なハードカバー本に応用できると考えております。仕上がった本として販売することも、製本キットとして販売し、利用者自身が自分のパソコンとプリンターで本を仕上げることもできます。

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